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開館 火~日曜日 10:00~17:00

「マス・ヤツメがとれたペンケオタウシナイ川」
(本町地区)<全文>

 明治二十三年草分け当時の歌志内は、一面の笹と灌木のやぶ原であった。所々に大きな樹木がしげっており、昼なお薄暗く、歩くのさえ、何となくもの淋しいばけものが出そうな所であった。今の学校(現、市立公民館の敷地)のあるあたりは、じめじめした水たまりで、カヤやアシ、ススキなどが一面に生い茂り、沢町などは水の少ない沼のようで、カワウソの棲み家となっていた。

 ことに夜な夜な鳴くキツネの遠声は、コンコンと夜の静寂に反響して、人々をふるいあがらせたそうである。 開拓の初め頃は、ずいぶん苦しい日々が続いた。家といっても下ノ沢の丸太小屋が三棟あるばかりで、商人などの入る家とてなく、彼らは手頃の立木を伐って、仮小屋をこしらえた。

 そして笹を刈って敷きつめ、畳の代用とした。親子は身を寄せあい、枕を並べて楽しかった故郷の夢を結んだのである。一番先に小屋の商店ができたのは、下ノ沢の長屋に近い木工場裏の川岸であった。坑夫相手の雑貨商が多く、なかには旅人宿を開く者もいた。

 その頃の川は水量豊かな清流で、マスやヤツメなどがよくとれた。この川水は、井戸のない当時の人たちにとって、飲料水としてだけでなく、洗濯水にも風呂の水にもなり、まことに大切な水であった。

  この苦しい一年が過ぎた明治二十四年七月、歌志内線が開通したのである。